私は母親をやめてみることにした
なんか、いつものブログとは異質な出だしになりましたが(笑)あれです、ジョジョの奇妙な冒険第一部・ディオさまの名台詞です。
(※ちなみにディオさまは人間をやめますが、私はやめません。)
…こんなこというと、なんだか大層なことが起きた感じがしますね(汗)
どういうことかというと…
自分の中にある「よい母親」像
「よい母親」ってなんでしょう?
きっとそれは人それぞれ。
本来、私にとっての「よい母親」と他の人にとっての「よい母親」は全然違うものだと思うのです。
なのに、つい追い求めてしまうこの「よい母親」像。
それはやはり、世間一般的に求められてる(と自分で思い込んでいる)ものや、自分自身の母親、などになっていくのではないでしょうか。
そのイメージといまの自分とのギャップ。
子育てをしている毎日の中で、そのギャップにずっとずっと葛藤していました。
いろんな育児の本を読んだり、自己啓発本を読んだり…。
そんななかで出会った「サドベリースクール」に関わる方のことばや、そもそも「しつけ」とは?というところに疑問符を投げかける方のことばを読んで、だんだん自分の中でなにかがゆるんで、出てきた答えがこの、「母親をやめてみる」というものでした。


小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話

マンガでわかる 今日からしつけをやめてみた
「よい母親」をやめるのではなく、「母親」という肩書きをいったんおいてみる
わたしのなかでは「よい母親」をやめるというだけでは根本的な解決にはなりませんでした。「母親」である限り、どんなにがんばっても子どもと同じ目線で物事をみるなんて私には出来なかったからです。
いいも悪いも取っ払って、いったん「母親」という肩書きをおいて子どものとなりに座ってみたら…。
もうそれはそれは心が軽くなる体験でした。
わたしはお母さんだからしっかりしなくちゃ。
大人だからがまんしなくちゃ。
親だからきちんと子どもをしつけなくちゃ。
その先にあるものはすべて、私や子どもではない、「他の誰か」の目を気にしている考えであったことにあらためて気づいたのです。
お母さんだって、ぬけてたっていい。
大人だからってがまんしなくてもいいし、ときにはわがまま言ったりいっしょに泣いてもいい。
大人でも時にはまちがったっていいし、怒られたっていい。
そうしたら、いままで親の目線から「ああしなさい」「こうしなさい」と指図していたことを、「○○してくれるとうれしいな」「○○されると悲しいな」と友だちのような対等な立場で意見できるようになりました。
指図されるのなんて誰だっていやだよね。
大切なお友だちに指図するひとなんていないものね。
もちろん私たちは大人で、君より身体がちょこっと頑丈だし出来ることも多いので、その分やってあげることは多いのだけど、ただそれだけ。
立場はいっしょ。
困った時は相談にも乗ってもらうし、お願いもする。
KJには先日「かあかあは、お母さんをやめようと思って」と告げました(笑)
KJは「え?」とおどろいた顔をしたけど、すぐに「うん、いいよ」といって「かあかあもとーたんもKJくんのおともだちだもんね」とうれしそうにしていました。
ああ、いままで偉そうにいろいろといってしまってごめんね。
それからというもの、私も一人でせっせと家事をするのがいやになったときは、「や〜めた。しばらく休憩!」とソファにごろんとしてテレビを見ることにしました(笑)
ちょっとくらい夕飯がおそくなったって、寝るのが遅くなったっていいんです。
そのくらい、気持ちが「お母さん」やってるときよりずっと楽になりました。
(妻)